「ぎゃ―――――――――ッ!」










寝台の上で本を読み耽っていた蓮は、つと顔を上げた。

「…………?」

今、何か聞こえた。
何となく悲鳴のようだった気がする。
空耳、だろうか?

―――そろそろ日付が変わる時刻。
窓の外はしんと静まり返り、ただぼんやりと皓い月が夜闇を照らしていた。
自室で休んでいたものの、余り寝る気にはならなかったため、こうして読書に勤しんでいたのだが。

「何だかいやに間抜けな声だったな…」

ときて、思いつくのはただ一人。
不意にその時、ノックも何もなしに、部屋のドアがばたんと開いた。

「……やはりな」
「何がやはり、よぅ!」

何故か枕を抱きかかえ、走ってきたのか荒い息をつくのは小柄な少女。
必死な形相はそのままに。
息を整えようと大きく呼吸を繰り返す。

「…どうでもいいが、扉を閉めろ。寒い」
「どうでもよくないよっ!」

と言いながらも彼女――は扉を閉めた。
よくよく見てみれば、その額には汗が浮き、瞳にうっすらと涙が滲んでいる。
何か余程のことがあったらしい。
蓮は内心やれやれとため息をつきながら、

「今度は何だ? 幽霊か? 悪夢か? 雷は鳴っていないしな。
 最も、何が怖いからと言ってこの間のようにトイレに付き合えというなら応えられんぞ」
「ゴキブリっ!」

蓮の顔が、それとわかるほど怪訝そうに歪んだ。

「……は?」
「だから! ごっ…ゴキブリが出たの、あたしの部屋に!」

まるでその単語自体が忌まわしいものだと言うように、は口をへの字に曲げる。

「……で?」
「必死の大戦闘の結果、策を練り直した方が懸命と判断し、一旦退却した次第です!」
「要するに逃げてきたわけか」
「だって怖いもんっ!」

蓮の呆れた声に、膨れっ面をしながらはぱたぱたと彼の隣に近付き、ベッドに腰掛けた。
ぎし、とスプリングが軋む。
どうやら真夜中の予期せぬ来訪者は、ここで夜を明かす心算らしい。

「蓮ならまだ起きてると思った」
「……だからと言って来るな」
「そんなあからさまに迷惑そうな顔しないでよっ! ちょっと傷つく…」
「あのな…」

蓮はため息をついた。
どうしてこうもこの女は鈍いのか。
一体どれだけの長い時間を、共に過ごせば気付くのだろう?

「こんな時間に男の部屋を訪ねてきて……お前、その意味をわかっているのか?」
「大丈夫!」
「何が大丈夫なんだ」

すると、はごしごしと目尻を拭い、にっこりと笑顔を作る。
まるで先ほどの半泣きの表情など嘘だったかのように。

「だってあたし、蓮のこと信じてる。蓮はそういうことしないって」

(………こいつ)

やられた。

蓮は苦虫を噛み潰したかのような顔でを見つめた。
台詞だけ取れば純情そのもの。
だがその笑顔は、どこか―――

案の定、は悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。

「蓮はこう言ったら無闇に手は出せないタイプでしょ」
「……わざわざそこまで言うか」
「うん」

あっけらかんと頷く彼女に、蓮はぷいと顔を背けた。

…もの凄く悔しい。
何だろう。この敗北感は。

そうやってそっぽを向いていると、やがて隣からくすくすと笑い声が聞こえて、いい加減気恥ずかしくなった蓮は「……ッさっさと寝ろ!」との後頭部に手をかけ、ぼふんと布団に突っ伏させた。
きゃー、といかにもわざとらしい悲鳴をあげながら、やはりは尚も笑っていた。

「って貴様、風呂から上がったそのままで来たな! 髪が濡れている」
「だって部屋でドライヤー使おうとしたら……Gに遭遇したんだもん」
「……今すぐ起きろ。そして乾かせ」
「何でよー」
「俺のベッドが濡れる」
「めんどくさい。蓮が乾かしてよぅ」
「断る」
「えー」

と、もぞもぞと動く気配がするが、起き上がろうという意志はないらしい。
そのまま布団に潜り込もうとしている。
放っておいたら確実に寝てしまいそうな体勢である。

「………」

そんな危険を感じ取った蓮は、大きくため息をつくと、渋々との肩にかかるタオルを取り上げ、 わしゃわしゃと聊か乱暴なくらいに彼女の髪を拭き始めた。

「痛い痛い! もうちょっと優しくやってよ」
「貴様このまま髪引き抜くぞ」
「スイマセン」
「…ったく」
「あー…このふとん、蓮の匂いがする」
「……変態か」
「あ、ひどっ! 乙女に向かってそんな暴言!」
「………」

もはや言い返す気力もなくなって、蓮は手を動かしながらも、ただげんなりと息を吐いた。
心底どうでもいい気分になってしまった。
もう好きにしてくれ、と心の中で呟きつつ、あらかた水分を取り終わった髪を前に、タオルを半ば腹いせにバサッとの頭にかぶせてやる。
すると、更に脱力するような答えが返ってきた。

「ドライヤーも頼んだ!」
「……何故持っている」
「えへ。思わず持ってきちった」

言いたい言葉はそれこそ山のようにあったが、そのにへ、とした笑顔に再び逆らう気力も失せてしまった。
もう何も言うまい。
そう決心して、蓮はからドライヤーを受け取る。

「あー、ひとにやって貰うと気持ち良いですなー」
「………」

熱風に当てるように、彼女の髪をくしゃくしゃにした。
ふわりと石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。
確かに良い匂いの筈だし、蓮自身嫌いな匂いではない筈なのに、

(疲れた…)

この意味のない虚脱感は何なのか。
考えるのも馬鹿馬鹿しくなって、蓮はまたひとつため息をついた。
しばらくして、彼女の髪も乾きあがる。
ぷつん、とドライヤーの電源を切る。
ちらりと目をやれば、彼女は何やら布団の中でごそごそやっていた。

「早く寝ろ」
「えー。まだチェック終わってないのに」
「何のだ」
「えろほん」
「あるか!」

(誰かこいつをどうにかしてくれ…)

蓮は頭を抱えた。
その肩がずしりと重たくなったのは、恐らく気のせいではないのだろう。
少し前までの、あんなにも静かで穏やかな空間は何処へ行ったのか。

「まったく……貴様と言う奴は…―――」

何故だ。
いつもはこんな風にやりこめられることなどないのに。
もう何度目かになるため息を再び吐きつつ、ちらりと隣を覗き見る。
すると。

「………嘘だろう」

思わず口から言葉が零れ出た。

その視線の先で――
いつの間にやらすやすやと穏やかな寝息をたて、夢の世界へ旅立ってしまったの寝顔があった。
どうりで静かになったと思った…。
さっきまで普通に喋っていたのに、その変わりように流石の蓮も唖然とする。
先ほどとはまた少し違った脱力感が込み上げてきた。

「……この間抜け面め」

腹いせに、その頬をぎゅうっと遠慮なく引っ張った。
だがいつものように「何するのよ!」と目をつり上げる気配はまったくなく、は小さく唸っただけだった。
目を醒ますその片鱗すら見せない。
余りの寝つきの良さに、いっそ感心すらしてしまう。
一瞬彼女の部屋に出たというゴキブリを連れてきてやろうかとも思ったが、自分も触りたくなかったし、わざわざその為だけに 身体を動かすのも面倒で結局諦めた。

「………」

嗚呼本当に。
どうしたというのだろう。
振り回されっぱなしで。

口惜しい。

だが明日は平日。学校は無常にも、ある。
そろそろ自分も寝ないと、明日に支障が出てしまう。
とりあえず、蓮も空いたスペースに横になるが―――

「……寝れるか、馬鹿者」

彼女をベッドの上に許したことを、今更ながらに後悔した。
これでは生殺しと同じじゃないか。
こんなにも肌が触れ合うほどの至近距離で、彼女の寝息を感じながら、眠気なんて湧いてくる筈もなく。
彼女が視界に入らないよう横を向いても、それは同じで。
シャンプーの残り香を、これほど恨めしく感じたことはない。

仕方なく蓮は起き上がると、予備の毛布をずるずると引っ張り出してきて、そのまま床に寝転んだ。
幸いにもカーペットが敷いてあったから、寝心地はまあ悪くはなかったのだけれど。

「………次は遠慮などしてやらんからな」

そう一言呟くと、蓮は無理やり瞼を下ろした。









「んー、良く寝た! あれ、蓮…なんで床で寝てるの?」 (……誰のせいだと思っている!)